第一章:「見える知性」の解笥学 ── 社会がちやほやする5つの記号

学力と成績:決められた水槽(クローズド環境)の中での最適化

私たちが人生の最初の4分の1を通じて、最も激しく競わされ、最も明確に「頭の良さ」の証拠として扱われるもの──それが「学力」であり「成績」である。

学校というシステムにおいて、良い成績を収め、難関と呼ばれる大学に合格した者は、社会からも自動的に「優秀な頭脳の持ち主」としての推薦状を手にする。彼らはルールを素早く理解し、要領よく課題をこなし、期待通りの成果物を提出する。その姿は実に見事であり、社会が彼らを重宝するのも無理はない。

しかし、ここで冷徹にその構造を解剖しなければならない。私たちが「高い学力」と呼んでいるものの正体は、どこまでも「あらかじめ決められた水槽(クローズド環境)のなかでの過剰最適化」に過ぎないのだ。

学校の勉強やテストには、現実世界には存在しない「3つの絶対的な条件」が用意されている。

第一に、「問いがすでに与えられている」ということ。 第二に、「必ずどこかにあらかじめ用意された正解(模範解答)がある」ということ。 第三に、「制限時間や評価基準というルールが明確に固定されている」ということだ。

この極めて限定された水槽のなかでは、知性とは「与えられた問いに対して、いかにミスなく、いかに効率よく、あらかじめ用意された正解へたどり着くか」という、純粋な処理能力の勝負になる。ここで高得点を叩き出す「学力の高い人」とは、いわばその水槽の特性を完璧に見抜き、そのエコシステムの中で最も効率的に栄養を摂取する方法を身につけた「適応の天才」なのである。

しかし、一歩学校の外へ出れば、現実という名の「境界線のない荒海(オープン環境)」が広がっている。

現実世界が私たちに突きつけるのは、「誰も問いを教えてくれない」「どこを探しても正解など存在しない」「ルールそのものが日々激変する」という、水槽の中とは真逆の過酷な環境だ。

水槽のなかでどれほど美しく、高速で泳ぐ術を極めたとしても、その能力は「水槽の壁(ルール)」があるからこそ機能していたものに過ぎない。壁が取り払われた瞬間、かつての神童たちが「何をすればいいのか分からない」と立ち尽くしてしまうケースが後を絶たないのは、彼らの知性が劣っているからではない。特定の狭い環境に最適化しすぎたがゆえに、環境の激変に対応できなくなるという、生物学的な「過剰適応の罠」に嵌まっているからだ。

学力や成績が高いことは、決して悪いことではない。それは、与えられたシステムをサバイブするための立派な「応用的知性」の一つである。

しかし、それを「知性のすべて」だと勘違いしてしまうと、私たちは一生、誰かが作った水槽を探し続け、その中の正解を当てるだけの退屈なゲームから抜け出せなくなる。本当に恐れるべきは、成績が悪いことではなく、用意された水槽の外では一歩も動けなくなってしまうことなのである。

の記事一覧へ